「土佐凧の町」のいち
著 弘田 秋雄 氏





 凧の歴史は古く、日本では承平年間(931〜938年)に出された「和名類聚抄」(わみょうるいしゅうしょう)の中に「紙老鴟」(しろうし)という名称で初めて登場してきている。その後、戦国時代には軍事的用途に用いられ、江戸時代に入って武家の子どもたちのおもちゃから更に飛躍的に普及し、「凧は浮世絵師の展覧会」とまでいわれ、武家以外へもどんどんと広がり、通行人が怪我をしたり、ケンカがおこったりするので、殿さまから「凧禁止」の布令が出されるまでに至った。しかし意気さかんな町民の間では絶えることなく、凧は作り続けられて今日に伝承されてきた。
 土佐凧は山内家が土佐藩主となった当時からあったことは確かである。土佐凧には「祝凧」とか「定紋凧」と呼ばれるものが多いがこれは、男の子の誕生の祝いとか、還暦の祝いに「祝」の文字を大書した凧を揚げるので「祝凧」の名があり、また図柄に自分の家の「紋章」を書いた凧を揚げるので「定紋凧」の呼び名があるわけで、武者絵などの「絵」を描いた「絵凧」もたくさん見受けられる。私どもの子どもの頃、野市町は隣の香我美町とならんで、凧揚げの盛んな町であり、おとなも子どもも遊びの少ない冬場の楽しみ、遊びとして、田んぼに出ては、大はしゃぎしたものである。寒風吹きすさぶ冬空を悠々として泳ぐ土佐凧の群は、まさに冬の風物詩とも云えるものであった。
 野市町土佐凧保存同行会は、この冬の風物詩を再現し、テレビっ子を戸外に引き出して、凍てつく冬枯れの田んぼの中、あぜを乗り越え、みぞを飛び、思い切って走りまわる子どもたちの姿を夢見て、江戸時代から伝わる土佐凧の技法を研究し、後世へ伝承しようと、昭和50年6月、志を同じくする、木下町長(前)、北村農協組合長の肝いりにより、町内の凧狂43名が一同に会し発足した。毎年2回、新正月(深渕地区大会)と旧正月(富家地区大会)に凧揚げ大会を実施して今年で第7回を数えるに至り、年毎に参加者や見学者が増加して今では付近一帯の田園をうずめつくす有様で、やっと野市の「冬の風物詩」として定着してきた感が深い。これもひとえに物心両面にわたり、ご支援をくださるスポンサーの方々、場所を提供してくれる地元農家の方々の深いご理解と暖かいご協力という陰の支えがなければ、今日の盛況はあり得ないものと深く感謝する次第である。






 野市町は元来凧揚げの盛んな町であり、古老の話によると、対象の末期から昭和の初期にかけて最も盛んであったようであります。私の子どもの頃にも冬の子どもの遊びは主として凧揚げであり、ほとんどの子どもは2〜3個の凧をもっていたものでした。そしてそのほとんどは年上の人に習って自作をしたものでした。凧揚げは子どもの遊びであると同時に、大人の楽しみでもありました。大人の揚げる凧は、男子誕生のときとか、節句、還暦の祝などに揚げたものでした。隣組にこんな家が出来ますと若い衆仲間が『祝』とか『寿』の文字を書いたり、赤ひょうたんの絵を書いた、小さい凧を作りその家に贈ると、それをありがたく受け取れば凧揚げをすることになります。家によりそれを受け取らない場合もあります。それは凧揚げの行事には、たくさんの費用がかかるからです。若い衆たちは大体めぼしをつけて、あそこは地主だから金があるとか、あそこの家は凧揚げが好きだからとかで、祝凧を贈ったものであります。この祝凧を受け取った家ではさっそく凧揚げの準備にかかるわけであります。
  まず親凧となる大凧を作らなければなりません。勿論、若い衆たちも毎晩、毎晩手伝いに出かけます。土佐和紙の半紙(仙花紙)を貼りあわせ、80枚、100枚といった大凧を作るのであります。凧の大きさを『何枚』といういい方をしますがこれは、貼りあわせた半紙の枚数でいっています。そしてこの大きな紙に子どもの名前とか祝の文字を大書して、竹骨を貼り付け、麻やまのちもと(糸目)をつけて完成であります。凧の尾も和紙を細長くつなぎあわせて30ぴろ、50ぴろとながいテープをつくり所々に景品の名前を書き入れていきます。そのテープを小さな篭に詰めてふたをしめ糸でとじます。その糸に綿やもぐさで導火線を付けたものを作ります。これを『焼きだし』と言いますが、これで準備が整った訳であります。
ここでいよいよ凧揚げということになります。隣近所は勿論のこと、その地区総出手伝いとなり、若い衆は大凧揚げ、女性は料理方、男性は宴会係、景品係と役割分担をします。田んぼでは、風の便りに聞きつけ、近郷から掛け凧をもって駆けつけた凧狂が朝から右往左往であります。やがて風を見計らって、大凧が『焼きだし』をしっぽにつけて、導火線に火を点じ大空に揚げるとしばらくして『焼きだし』のふたを留めてある糸が焼ききられ、中から景品のついたテープがとびだしこのテープを掛け凧が引っかけて取るという、いわゆる凧合戦が始まるのであります。
 その頃地上では家から持ちだした、38樽のかがみが割られ、掛け凧の人や見物人、誰でも一杯呑まして景気をつけます。まさに土佐っぽの面目躍如たるものがあります。(註;現在は飲酒運転当の関係もあり、この振舞酒はほとんど姿を消してしまいました。)大人も子どもも今と違って遊びの少ない冬場の楽しみ、遊びとして田んぼに出ては大はしゃぎをしたものであります。
 寒風吹き荒ぶ冬空を、悠々として泳ぐ土佐凧の群はまさに冬の風物詩といえるものでありました。野市町土佐凧保存同好会は、この冬の風物詩を再現し、テレビっ子を戸外にひきだし、凍てつく冬枯れの田んぼの中、畦を乗り越え、溝を飛び思いっきり走りまわる子どもたちの姿を夢見て江戸時代から伝わる土佐凧の技法を研究し、後世へ伝承しようと、昭和50年6月、志を同じくする木下光明町長、北村益美農協組合長の肝いりで町内の凧狂43名が一同に会し発足しました。毎年1月の新正月と2月11日の建国記念の日に凧揚げ大会を行い、毎年参加者も増え、いまでは付近一帯の田んぼを埋めつくす有様でやっと野市の『冬の風物詩』として定着してきました。